月の民

小説

 想起によって自壊される腕章を眺めていた。了解できない思想は僕にとってないものと同じであり、確証のない躊躇いがいつもいつでも邪魔をするのだ。翻って考えることもできないままに恐ろしげな感覚だけを僕に残してゆく。耳が縮れる、そのまま裏返って花束を咲かせる。青い布ばかりが広がっている床の上を横になって転がっていたかった。自分から埃を吸い取ってくれるくらいの青。了解できない頭痛が僕に残り、了解できない後頭部から三センチ沈んだ内側で目が疲れたと主張していた。目を閉じられない、助けてくれ、と叫べばよかったのだろうか? 特段の正解はそこにないのならば、お前はこの文章を読まなければならない。そうだろう? 僕だって美しい海で泳いでいるのだ。体から蓄積された電気が排出されるそうですよ。そうあいつは言っていたから。自分の顔から腐臭がする。傷んだ油の臭いが。筋肉のない弛んだ隈の多い顔が口を半開きにして鏡を見ている。醜い無表情の顔。二日放置した髭が上唇に沿って生え、頰も触るとジャリジャリと感覚がある。目を抉り出したい。美的な意味でなく単純な逃避として。痛みから逃れたいし、発狂したと思われたいから。私の姿勢は自分の首に負担をかけていて、あぐらをよりきつくした脚は両膝を重ね合わせて太腿がぴったりと閉じている。ダンボールと梱包、座布団と本、満載のゴミ箱、僕のものではないギターと物干代りの二段ベット。一歩も部屋から出ずにベッドで横になっていたら布団が悪臭を放つようになったのでそれを干していたのだ。この部屋を僕は普段使わない。

 エーテル、と語感が浮かんだ。単に語感の問題だ。

 一方的に生活させてくれ、何もかも失わせてほしい。何もかも残らなくなるまで僕を依存させて先に死んで僕を破滅させろ。ここ三日酒を飲んでいない、単に買いに出るのが面倒だったからだ。死ぬ間際まで追い詰められたら僕を愛してくれるかい。そうだろう、化粧品の広告みたいな生活がしたい。ビールのコマーシャルとワッフルはもう古いんだ。ほら、僕は物知りだ。愛される価値があると思うね。露悪はやめておけよ。まる。ねえ一応言っておくけどこれは僕の言葉じゃないぜ、言われたから書いてるんだ、あいつ、言うに事欠いてこの俺に普通に幸せになってくれと言いやがった。あいつが僕に言いやがったんだ。僕を好いていた子を横からさらったあいつが。うるせえよ、俺は甲斐性なしだって言うんだろう。うるせえんだ。しかもその言葉を、妻からのメッセージとして伝えてきやがった。お前たちは幸せになれ、幸せになる以外の選択肢など俺が許さない。いいか、お前たちは、幸せだ。生涯幸せなんだ、よく覚えておけ。

 何も考えることがないまま書き続けていたい。生涯真っ白な部屋に閉じ込められて、一切の異音がなく、一切の情報がない部屋で画面を前に書き続けていたい。覗き窓から食事を差し入れてくれ、俺を外に出すな。想像すると怖いんだ。そこに閉じ込められた自分が耐えられなくなって出してくれと感じ出す、でも僕はそれを言葉にすることができない。自分は一貫した存在でなければいけないからだ。僕がこの部屋に閉じ込められたいと言ったんだから、一生閉じ込めておくんだ、それが社会というものだ、俺を出せ、同じままでいろ、変わったら殺す。変わったことなんか認めてやるものか。飽きたのなら、ほら、この郵便受けから美しいルビーやサファイアをじゃらじゃらと流し込んでやる。お前はそれを床に寝そべったまま涎を垂らして見るんだ。見るんだよ! お前は服を着ているじゃないか。いい服だな、なあ?

 何枚か重なったレイヤーをずらしてアニメーションのように見せた。本当はどれも同じ絵だがそのずらし方が曲線的なのでもしかしたらアニメーションに見えたかもしれない。川の流れになぞらえた上流に向かうに従って半透明になっている。表題にもアニメーションとあるのだからこれはアニメだ。君にもそれが描ける。僕には描けなかったけど君なら描けるんだ。頭が痛い。唇が乾いている。食べるために動きたくないんだ。動きたくない。俺を動かすな。ツナ缶を開けてスプーンで食べた。パセリにマヨネーズをかけて食べた。トマトを齧った。豆腐に醤油をかけて食べた。三食はそれが続いた。一日たぶん二食か一食。多分そうだった。

 強情だね、お前も。そろそろ日が傾いてきて、暗い。お前何やってたの? ここに何の用があるの? 帰れよもう、黒猫に話しかけられた方がよっぽど有意義だった。金色に光る樹木名の案内板とか、登ってくる朝日とか、澄み切った空気とか、そういうものが好きだった時もあったんだ。その時の帰れと今の帰れは全然質が違う。もう帰れ、帰れ帰れ帰れ、帰れよ、帰れ。そうやって服の裾を握りしめている。本当に帰った方がいい。僕はパスタを茹でる。

無関心

 僕は木に登っていた。冬の空と山際だった。空気は灰色をして、汽笛から透明な煤が吹いて、遠く遠く行き渡ったようだった。白茶けた枯れ草に覆われた畝は、次第に夕暮れの中に波打って、ひとつ、ふたつ、飛び石のように散らされてある瓦屋根も沈んで見えた。
 寒い冬だった。からからと乾いて、雲も刷毛で塗ったように薄く削られていた。何かを考えなければいけなかったのだった。それがなんだったのか、今となってはわからなかった。追いかけるようにぽつぽつと思い出されるのは、淡くぼやけた誰かの笑顔や、垣根に過ぎる黒猫の尾のしなりだった。
 ぱらぱらと羽音が聞こえた。右手の茂みから彼女が見えた。さらさらと髪は流れて、口は一文字に結ばれて、こちらをきっと見上げているのだった。
「遅いよ」
彼女は言った。
「八代さんに男の子が生まれたの」
彼女は言った。
「今泉さんは汽車に乗ったわ、もう着くんじゃないかしら」
 彼女の声は少しずつ張り上げられて、冬空に抗いながら、吸い込まれていった。
 寒い冬だった。じわじわとかじかんでいく指先は赤く、しかしきつくなる陽の色はそれを溶かし、何も変わらないように見え、それは彼女の顔も同じことだった。影が一層濃くなった。
 思い出さなければいけないことがあったのだ。だからこうして僕は木に登って、それでーーー
「ねえ、いつまでそこにいるの」
彼女の声が張り上げられて、僕は口を開こうとして、答えられなかった。喉ではなく、胃が沈むように、答えられなかった。風が吹いた。ざあ、と草が鳴り、彼女の顔を髪が隠した。空にはもう星が現れて、地の点々とした灯と鏡合わせになったように、どこまでも遠く続いていた。
 だって、と呟く声がした。
「だって、仕方ないじゃない」
 彼女は言った。
「だって私は、木に登れないんだもの!」
 わあと泣き出した彼女は声を噛み締めると振り返り、歯垣を漏れる嗚咽を伴うと、ざくざくと茂みを分けた足音は、そのままじきに、木立に消えた。
 幹に背中を預けてうなだれると、腰掛けた太枝と僕の体は一つの景色になったように、こんこんと、もうすっかり降りてしまった夜に溶けてゆくように思えるのだった。

アイン①

 アインという、月の民の一員がいます。彼は月を眺めていました。群れから一人離れた丘の木の上、とりどりに彩られた布張りの天幕と、薄紫色の空へと登ってゆく微かな炊煙とがいくつも赤土色の地面を埋めた辺りをぼんやりと見遣りながらも、その目はおもむろに月へと吸い寄せられるのでした。

 腰掛けて身を預けた老木は葉を落とし、どこか寒々と透き通った空気に溶けるようなアインの影が、煌々と白い月に重なっています。もう何度も繰り返した景色なのでした。

 月の民は、生涯をかけて月を追い続けることを決めた人々で、そこに血縁関係はありませんでした。あの街で一人、この街で一人と増え、あるいは減りながら、ゆらめくようにその境界を曖昧にさせたまま、ただ月を追って歩き続けているのでした。

 アインは捨て子でした。それ自体はよくあることでしたので、先生に拾われたのはアインにとって幸運なことでした。先生というのは月の民の中で主導的な立場にいる人たちのことで、(主導的、と言っても結局みんな月を見上げて歩いているだけなのですが)大きな群れの中に、いくつかもの小さな群れと、何人もの先生がいるのです。アインはその中の一人に、偶然街で拾われたのです。

 「あ」

 アインはひとこと言って、先生の腕にすがりました。先生は薄く靄がかかったような、泡立つ緑色の海のような目でアインを見返すのでした。

 「あ」

 アインはまた言いました。大きな時間の中で、ただひたすらに二人だけになってしまったように、アインと先生は見つめ合いました。

 不意に、先生はアインに向けて拳を突き出すと、花を咲かせるようにその指を開きました。手の中には真っ赤な干し果物が、ルビーのように散っていました。甘い、甘い味が、アインの口の中に、切なく、ぎゅっとこみ上げるのでした。

 アインはそれを取り、食べました。先生を見上げながら、先生もアインを見ながら。そうして踵を返す先生の後を、よちよちと、追って歩きました。こうしてアインは月の民になったのです。