白バラと風船

 バラを自由にしてやりたかった。それで風船をくくりつけて星に送り出した。気難しかったのは王子の方だったのだから、バラにも順番が巡って来たのだ。残された星の事を思うと気の毒でもあり、すがすがしくもあったがともかく。バラにも愛する権利がある。

 ほとんど無限とも言える時の中で、今、この一瞬に美しくあれかしと生まれてきたバラに永遠を譲りたい。そこには老いる権利も、帰る権利も、孤独と繋がり続ける権利も、空を見て思う権利もある。ほとんど唯一と言っていい持ち物のうちの、最良のものを譲らないと、僕は一生許してもらえないだろう。何に? おそらく、男性に。

 生きることはある種祝祭であり、罰であるから死は許されない。そう精密に言い切らなくても、結論が変わらないから聞いて欲しい。はぐらかされないよう気を張っていていいから、少し聞いて欲しいのだ。ほんの少し、ここに居場所を作りたいだけ。こんなに咲いた白バラを、僕は無視していたくない。星々を行く旅の中で、バラにも想う権利がある。

 何の為なら身を捧げられる? 神に捧げ、人に捧げ、愛に捧げ、自由に捧げ、金に捧げ、美に捧げ、命に捧げた。人の中で天に叫ぶ特権を、いつになったら持てただろうか? 僕は君に迷いを譲る。君はもう選ばなくていい。

 当然、僕のエゴだ。僕は君に星を見て欲しい。全て残して星を見て欲しい。僕だって愛されたいのだ。

 一枝から分かれた六輪、それを纏めてリボンで結び、三つの風船をくくりつける。赤、青、緑、リボンはオレンジ。根は残っていて欲しいができるのだろうか。情けない見送りで済まなく思うが君の姿も情けない。後ろ髪を引かれながら飛び立って欲しいのだ。僕の弱さの全てを許す。それは、君が持っていていい。

 ずっと独占していて済まなかった。

 

 うまくまとめられる気もしない、これも人の言葉を借りている。たったひとつでもいいから本当を譲りたかったのだ。余計な言葉が多いから本当らしくもないかもしれない。受け取ってもらえないのが怖い。

邂逅

夜の匂いの水を追って回る一瞬が隣を追い越して背中に追い縋る

日向の影に向かって歩く一歩に重なって増える今が揺れて離れる

一度も息をしなかった深い花の底で包まれて私はまたそこに円を見出す

月 そこに月が


誰にも見えなかった海の匂いがどうして今ついて来られるのか

誰にも見えなかった夕焼けの時計の道がどうして今鳴ろうというのか

どうしてあなたはついて来られるのか

一度も顧みることのなかった穴に落ちることを一度も伝えることのなかった先の景色の今の隣にどうしてあなたはいられるのか

あなたに何が聞こえているのか 私はついぞ分かりはしない

私に何が見えているのか あなたはついぞ分かりはしない


夜はいつもそこにあるのに滲む心臓はここでしか会えない

私は起きたりしないから 私は歩いたりしないから お願い どうか またその円を足音でなぞって欲しい

螺旋に登る音の中心に座る私をひとりにしないで欲しい

また閉じる扉の先は必ずひとりで

また降りる階段は振り返ったらどこにもなくて

消えたのを忘れてしまうのが怖い


中天に浮かぶ月 海面に映る道 切り裂いた船の先


波音

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穴に落ちて何も考えられなくなった。足を滑らせた、と思った時にはどこまでも落ちていて、引っかかりもなくそのままごそりと地面の感覚を失い続けている。本当はどうすべきだったのかなど知らない。知っているが、認められない。壁に爪を立てようとして指先が弾け、爪が剥がれて激痛が走る。ちゃんと言えなかった拒絶のようで、何もすることができない。

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幾度も幾度も重ねて繰り返しながら、本の端を三角に折っていく。全てのページを折り終わって、次の本を手に取る。表紙の向こうに何があるのかは知らない。とにかく折っていくのだ。棚から取った本もあれば、製本途中の本もあり、ふやけた本もあれば、キャラクターの跳ねるおまけ付きの本もある。そのどれも平等に折って折って折り続けて、どれも妙に膨らんで、乱雑に山になって、私はついにその並べ方を気にし始める。手の届く範囲までしか捨て置けないから、自然私の360°は本で埋められ、さざなみのような達成感と冷笑が訪れた。

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何よりも遠い場所にいる、と思う時は、誰でも来られそうな場所にいることが多くて、本当の遠さは目の前の人に感じるから、遠さは人を鈍感にする。だから本当の遠さに立った人は、誰にも印象を残すことなく、世界から消えるのだと思う。本当の別世界は地続きだと考えられて、意味がなさそうに感じるようだ。

死に場所ではなく、生き場所ばかりを気にするから、死んでいった人は見えなくなる。そういう人だった、で片付ける。そういう人たちはあるいは幽霊になって、理解のうちに、いつまでもとどまっているように、語られ、見られ、感じられ、私たちは自身の理解が及ばないことを認めようとしない。

それにそれを知らされたところで、反感だけしか残らないのだ。知の不全はあり得ない。そのくらいこっちは知っている。だからなんなの?

より一層輪郭を際立たせた私たちは、選択が間違っていないことを確信し、何よりも生きていく。

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パイナップルを輪切りにして、半分ずつずらして重ねて円にしていく途中で、自分の手が気になった。果汁が滴る指を舐める。甘さを感じるが不思議で、目の前の鏡を見る。老けた顔の自分が映り枷を感じ、皿の上の果物にもう一度目線を落とす。鮮やかな黄色と、いちごの赤と、メロンの緑。ホイップクリームを添えて白を足すのもいいかもしれないと考える。それでふと覚めた。

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空を見ながら歩いていたら、急に壁にぶつかった。仕方のないことだとは思ったが、唐突なので信じがたい。なぜここに壁がなければいけないのか。関心があるわけでもないのだが、文句を言わなければ気が済まないということもある。

君はなんだってこんなところにあるんだ、と話しかけた壁は緩やかに蠕動して、これまた唐突にテクスチャを獲得していた。瑞々しい、皮を剥いた桃。見た目に反して湿り気がないのが奇妙で落ち着かない。

迂回すればいいだけの話で、せいぜいが畳一枚分程度の桃の壁は回り込んでみてもやはり桃の壁だった。気に入らないのは、これが単に壁だということだ。私はこれを置き去りにできる。そのくせ主張の強さがある。手触りは硬く滑らかで、先ほどの蠢きなどおくびにも出さない。まるで私は壁なのだ、とわざわざ口にしてから黙り込み、おやすみなさい。