無関心

 僕は木に登っていた。冬の空と山際だった。空気は灰色をして、汽笛から透明な煤が吹いて、遠く遠く行き渡ったようだった。白茶けた枯れ草に覆われた畝は、次第に夕暮れの中に波打って、ひとつ、ふたつ、飛び石のように散らされてある瓦屋根も沈んで見えた。
 寒い冬だった。からからと乾いて、雲も刷毛で塗ったように薄く削られていた。何かを考えなければいけなかったのだった。それがなんだったのか、今となってはわからなかった。追いかけるようにぽつぽつと思い出されるのは、淡くぼやけた誰かの笑顔や、垣根に過ぎる黒猫の尾のしなりだった。
 ぱらぱらと羽音が聞こえた。右手の茂みから彼女が見えた。さらさらと髪は流れて、口は一文字に結ばれて、こちらをきっと見上げているのだった。
「遅いよ」
彼女は言った。
「八代さんに男の子が生まれたの」
彼女は言った。
「今泉さんは汽車に乗ったわ、もう着くんじゃないかしら」
 彼女の声は少しずつ張り上げられて、冬空に抗いながら、吸い込まれていった。
 寒い冬だった。じわじわとかじかんでいく指先は赤く、しかしきつくなる陽の色はそれを溶かし、何も変わらないように見え、それは彼女の顔も同じことだった。影が一層濃くなった。
 思い出さなければいけないことがあったのだ。だからこうして僕は木に登って、それでーーー
「ねえ、いつまでそこにいるの」
彼女の声が張り上げられて、僕は口を開こうとして、答えられなかった。喉ではなく、胃が沈むように、答えられなかった。風が吹いた。ざあ、と草が鳴り、彼女の顔を髪が隠した。空にはもう星が現れて、地の点々とした灯と鏡合わせになったように、どこまでも遠く続いていた。
 だって、と呟く声がした。
「だって、仕方ないじゃない」
 彼女は言った。
「だって私は、木に登れないんだもの!」
 わあと泣き出した彼女は声を噛み締めると振り返り、歯垣を漏れる嗚咽を伴うと、ざくざくと茂みを分けた足音は、そのままじきに、木立に消えた。
 幹に背中を預けてうなだれると、腰掛けた太枝と僕の体は一つの景色になったように、こんこんと、もうすっかり降りてしまった夜に溶けてゆくように思えるのだった。