5/1

誰とも会わずに済むように、部屋を花で埋めたい。それぞれの様子に気を配って、どれくらい水をやるのか考えて、正解がわからないから真剣に見るしかない。花を生かすために生きていれば、喋る必要も言葉を考える余裕もないだろう。全てが枯れないわけではなく、枯れたものは土に返して、新しい花がその位置を占める。あるいは正しい育て方を知ってそれを実践すればよいのだろうが、花一つの最適な温度はどの花によっても違って、最適な土も違って、最適な陽当たりも違った。いくつもの花々に頭でわかったそれを実践しようとして、期待を裏切られることを期待している。「正しい知識」が裏切られて、自分の卑小さが浮き彫りになればいい。知ったかぶりが明らかになればいい。花を愛でているのか、花を愛でている自分を愛でているのか、人を憎んでいるのか、人に愛されたいのか分かりたくなかった。ただ花で埋まればいいと思った。花の陰に隠れて黙って、人に見られても花の陰にあり続けたかった。部屋から溢れ出した花がいつか庭まで埋めて、そこから先には出なくてもいい。世界に干渉したくなかった。させたくなかった。その時花は外に出たがっているのだろうか? 自分が庭を作ったその時。庭を世界に拡張したい自分のエゴと何が違っただろう。花が咲くためにある世界へと世界を作り変えることが、自身の内面から、部屋を変え、庭を変えるとするならば、庭から外には広がらない方がいい。花は庭の中だけにあって、侵略させない方がいい。花を咲かせる自分のエゴは、庭の外にはふさわしくない。与えたくない。花が風に乗って意思を持って広がるというなら、それは花に任せるべきか? 綿毛に乗って虫に乗って、境界を越えようとする花を外に逃さぬようにする事はエゴか自制か。緩やかな垣根が必要だった。境界は生垣でなければいけない。それが境であることを意識させない、生きた境がなければいけない。生垣すらもエゴだとしたら? 冷たいコンクリートの壁、大量生産のアルミの柵、「考えすぎない」ことこそが人を愛する本当の証だとしたら? 自身を捨てて人を愛する人だけが正しいのだとしたら、何もせずに黙っているのがよかった。「正しい愛」のために命を擬人化したり、意思を持たせたり、あるいは意思を持つのは自分だけと気負ったり、なにをしようと、行動とは間違いだった。一人の思考は間違っている。一人で考えるのが間違っている。一人でいるのが間違っている。笑わないのが間違っている。笑えないのが間違っている。同じ幸せにいないのが間違っている。人に関心を持っている人間を想定するのが間違っている。自分が関心を持たれていると考えるのが間違っている。何をしようと関係ないと考えないのが間違っている。

何より間違っているのは、花が境を越える時、それはその姿がより自然なのだと気付かなかった事だ。その花を摘もうが摘むまいがそれは自然が決めること、その花が私の庭から溢れたものであることを見えないように垣根をつくった後ならば、それは自然にあるのも同じ。思わぬ人には不思議な一輪、自然の不思議。私は花の陰に隠れ、さらに花さえ垣根に隠れる。そして花が勝手に垣根を越えて一輪咲いた時、それが最も美しいだろう。その花が生まれた庭を思う時、その庭は最も美しいだろう。