アイン②

アインが歩く階段が白く輝いて月に続いていました。菫色の空をさらに登って、だんだんと暗くなってゆく空、広い広い階段がぼうと光ります。ヨナとリクトはもう随分前にすれ違いました。灰色の二人が手を繋いだまま、あの時のまま、腑を零したまま、階段をすり抜けてゆっくりと落ちてゆくのをアインは覚えていました。ふつふつと空の、月の向こうに点があらわれ、次第に形を見せながら渦になって、階段を囲むように落ち過ぎて行く、その初めが二人だったのでした。それからアインの横を通った枝葉、焼けた鹿、潰れた蛙、前脚のない狼などが、全て色を失った灰色で、ゆっくり、ゆっくりとどこかに降り積もり、階段をやはり幻のようにすり抜けているのです。隣を過ぎ行く大きな鯨の目玉にアインは手を伸ばしました。とぷり、とそれに指先は沈み、霧を撫でるように造作なく、また落ちて行くのでした。見上げたアインにうねる鯨の体が大きく迫り、反った胸鰭のまわりを月明かりにきらきらとした塵が薄桃色に濃い紫の空の中漂っています。アインは止まらず階段を登り、鯨の体をすり抜けて月を見ていました。こうこうと光る月は白く、その色と同じ階段は音もなく、ただ省みれば背後に暗闇があるばかりだと知っているのです。足を離した端から消えて、さらさらとした砂のように、それらの灰の死骸とともに柔らかな風の中に溶けて行くのでした。アインは登る道すがら、昔のことを思いました。

 

アインは砂の街に生まれました。母はなく、父もありませんでした。気付いた時には砂壁の横、影の隣で丸まっていました。産み捨てられた子でしたので、おおかた砂でも食べたのでしょう。むくりとアインが起き出すと、さらさら詰まった耳の奥から細かな白砂が滑り出ました。まつ毛が砂で白んでいました。破れた布で体を覆っておりましたので、いつかは何かを着たのでしょうが、そうした記憶はないのでした。吹き散らされた風に乗って、肩の袖跡から砂が溢れます。ぼんやりしていたアインの前に、ごつい片手が伸ばされました。赤い小さな実が二つ、その手のひらに乗っています。アインが腕の根元を見ると、白い髭して浅黒い肌、緑の目をした老人が、不思議な模様のフードの中からこちらをじっと見ていました。それをアインはしばらく見ると、手のひらの実をひとつつまみ、それから口に入れました。それがアインの先生でした。

 

砂地を抜けて、次第次第に緑を毛馬が踏むようになってきます。二人は毛馬にまたがって、幼いアインは先生の背にしがみついていました。アインはずっと考えていました。先生の背中から微かに砂の匂いがして、毛馬の足音が体に響きました。


何かを思い出したくないのでした。その何か、思い出したくない事が大きすぎて、ずっと考えているのです。そういう風に先生の背中にしがみついて、背中は暖かく、ここに来るまでに遭った砂の嵐も、輝くばかりの月と寒さも、日照りの下の痛い乾きも、アインにはよく分かりませんでした。


先生から被せてもらったお揃いの服の下でアインは、思い出したくありませんでしたし、思い出しませんでした。先生は何も言いませんでした。赤い小さな実を食べるアインを見ている間も、よたよたアインが先生の後を歩く間も、ついに毛馬にまたがる時にアインの両脇に手を差し入れて抱き上げ先にまたがらせた時も、何も言いませんでした。今もそのまま何も言わず、アインは先生の背中にしがみついています。


砂の街に生まれたことは、アインにとってどんな意味があったのでしょうか。気付いた時には路地に捨てられていたアインには分かりかねることでした。目やにがこびりついていました。砂で目が開かないのでした。唾をつけてこすり、痛む目を軽く押さえながら体を起こしたアインは、土壁の作る影に腰から下を沈ませながら、一帯影に沈んだ路地を見て、それから狭い空を見上げました。


先生の顔は無表情でした。明るい緑色の目と、深い皺と、白い口髭、顎髭、眉毛の顔は、茶色のフードに縁取られて、一つの文様のように完成されていました。前を見る先生の頭上に月がかかっていました。青白い昼の空でした。太く頑丈な毛馬の足が、しっかり重く砂を踏みました。